解答例
第1 法律上の争訟
1 処分2の取消しの訴えには、以下のとおり、「法律上の争訟」(裁判所法3条1項)が認められ、訴えは適法である。
2 法律上の争訟とは、①当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、②それが法律の適用によって終局的に解決できるものをいう[1]。
3 本件では、市議会という地方議会における除名処分が問題となっている。除名処分は、議員の資格の喪失という法律関係を有する(①充足)。また、除名処分の手続は法定されていることから(地方自治法(以下、「地自法」という。)135条)、取消の訴え(行政事件訴訟法3条1項)は、法令の規定に基づく処分の取消しを求めるものであり、その性質上、法の適用によって終局的に解決可能である(②充足)。なお、除名処分は、議員の身分の喪失に関する重大事項であり、単なる内部規律の問題にとどまらないため、司法権の審査が及ぶ[2][3]。
4 したがって、「法律上の争訟」が認められる。
第2 Xの①の主張
1 Xは、処分1は、思想良心の自由を侵害し、憲法19条に反し、違法であるところ、かかる処分1を拒否したことを理由とする処分2も違法であり、取消事由が認められる、と主張することが考えられる。
(1) まず、思想良心とは、人の内心におけるものの見方ないし考え方をいうところ、陳謝の意は、かかる内心におけるものの考え方といえ、思想良心にあたる。
ア これに対して、思想良心とは、信仰に準ずべき世界観、人生観等個人の人格形成の核心をなすものに限られるため、陳謝の意はそのような内容を含まず、思想良心の自由によって保障されないとの反論があり得る。
イ 私見としては、国家の干渉を受けない内心の自由を内容によって区別することはできないと考えられ、上記反論は認められないと考える。
(2) 次に、意に反して陳謝文を朗読させることは、内心と異なる意思表示を強制されることから、思想良心の自由の制約が認められる。
ア これに対して、謝罪広告事件判決[4]によれば、謝罪広告を新聞紙に掲載すべきことを命ずる判決は、思想良心の自由を侵害するものではないとして、制約を否定しており[5]、陳謝の意を朗読させる処分1も思想良心の自由の制約はない、との反論が考えられる。また、処分1には、強制執行による方法が認められていないのであるから、思想良心の自由の制約はないとの反論が考えられる(同判決の入江補足意見参照)。
イ 私見としては、謝罪広告の掲載は、そこに掲載されたものが真意であるとの表示効果を発生させるものであり、それを命じる処分は、意に反する行為の強制といえ、思想良心の自由の制約が認められると考える。また、強制執行の方法が認められない場合であっても、重大な不利益によって二者択一を迫られるような場合には、実質的に制約があるといえる。本件では、処分1に従わないことを理由に処分2によって議員の地位を喪失するという重大な不利益を受けているところ、これを免れるためには、翻って処分1に従って謝罪をするほかなかった。したがって、思想良心の自由に対する実質的な制約があるといえ、上記反論の後段も認められない。
(3) 内心に反する行為の強制は、必要最小限度の手段でない限り違憲となるところ、本件では、陳謝までをさせる必要はなく事実の訂正でも足りたのであるから、必要最小限度の手段とはいえない。
ア これに対して、議場においては、地方議会の自律権が及ぶところ、懲罰については、地方議会の広範な裁量が認められ、事実の訂正と共に謝罪を求めることは、著しく妥当性を欠くとはいえない、との反論が考えられる。
イ 私見としては、地方議会に自律権が及ぶとしても、人権が直接制約されるような場合には、その裁量は限定されると考える。したがって、上記反論は認められない。そこで、地自法135条1項3号の陳謝が認められる場合とは、議会の運営に著しい障害を来し、又は、議会や議員の信頼を毀損するような不適切な行為があった場合に限られると考える。問題となっている本件発言は、文教委員会の委員の活動として、当時一定の調査による相応の根拠に基づいて行った正当なものであり、議会の運営に支障を来したり、議会や議員の信頼を毀損するようなものではないといえる。したがって、本件では、地自法135条1項3号の処分が認められないにもかかわらず処分をした違法が認められる。
2 よって、処分1は、思想良心の自由を侵害し、違法である。
第3 Xの②の主張
1 Xは、処分2は議員活動の自由を侵害し、21条1項に反して違法であり、取消事由が認められる、と主張することが考えられる。
(1) まず、議員活動の自由は、当然に21条1項によって保障される。
(2) 次に、処分2によって、議員の地位を剥奪される以上、かかる自由の制約が認められる。
(3) 議員の地位を剥奪する直接的な制約については必要最小限度でない限り違憲となるが、謝罪をしなかったことのみをもって議員の地位を剥奪することは、必要最小限度とはいえない。
ア これに対して、議員の地位の剥奪は、処分1に従わなかった結果であり、間接的な制約にすぎない、との反論が考えられる。また、このような議員の地位の剥奪は、地方議会の自律権の中核であり、広範な裁量が及ぶとの反論が考えられる。
イ 私見としては、処分2は議員の地位を剥奪する直接的制約であるといえるが、地自法135条1項各号の処分は自律権の行使の結果である以上、除名処分それ自体によって議員活動が制約されるとしても、そこには地方議会の広範な裁量が及ぶと考える。したがって、上記の反論の後段は正当であると考える。そこで、著しく妥当性を欠く場合に限り、裁量の逸脱濫用が認められると考える。本件では、処分1に従わないことを理由としてより重い処分2を下すことは比例原則に反するものでもなく、社会通念上著しく妥当性を欠くともいえない。
ウ したがって、処分2は、適法である。
以上
[1] 最判1953年(昭和28年)11月17日行裁集4巻11号2760頁。
[2] 板橋区議員除名処分事件判決(最大判1960年(昭和35年)3月9日民集第14巻3号355頁)。いわゆる部分社会の法理と呼ばれる論点である。かかる論点が、法律上の争訟の要件の話なのか、それとは別の議論なのかについては、判例からは明らかではない。本答案では、法律上の争訟の要件とは別の議論として整理している。
[3] なお、基本書では、板橋区議員除名処分事件判決が「議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らない」と判示した、と記載されることが多いが、同判例自体にはそのような判示はない。そもそも同判例は、議員の任期満了後に除名処分の取消しの訴えを求めた事案において、訴えの利益がないと判示したものであり、法律上の争訟について判示していない。しかし、その後の山北村議員出席停止処分事件判決(最大判1960年(昭和35年)10月19日民集第14巻12号2633頁)の判示において、「昭和三五年三月九日大法廷判決―民集一四巻三号三五五頁以下―は議員の除名処分を司法裁判の権限内の事項としているが、右は議員の除名処分の如きは、議員の身分の喪失に関する重大事項で、単なる内部規律の問題に止らないからであつて、本件における議員の出席停止の如く議員の権利行使の一時的制限に過ぎないものとは自ら趣を異にしているのである。」としており、板橋区議員除名処分事件判決が、除名処分について司法裁判の権限内の事項と判断した、と断じている。訴えの利益の判定をしているということは、法律上の争訟について当然にパスしたということであろうか。もっとも、民事訴訟法の通常の訴訟要件の理解からすれば、そのような審理順序の強制はないはずであり、板橋区議員除名処分事件判決は、法律上の争訟については何ら判断していないと考えるのが自然なように思われる。ただし、両判決とも大法廷判決で、同じ最高裁判所裁判官による判決(正確には、山北村議員出席停止処分事件判決では、小谷裁判官と石坂裁判官が欠けている。)であることからすれば、最高裁判所内部としては、そのように判断した、ということなのであろう。ちなみに、山北村議員出席停止処分事件判決については、近時判例変更がなされた(最判2020年(令和2年)11月25日民集第74巻8号2229頁)。
[4] 最判1956年(昭和31年)7月4日民集第10巻7号785頁。
[5] 渡辺康行ほか『憲法Ⅰ―基本権[第2版]』(日本評論社、2023年)171頁。もっとも、同判決が、制約段階で切ったといえるかどうかは、かなり怪しいように思われる。